
森田療法雑記
(苦楽を越えた生き方)
実は今日(97.12.26)、ひさしぶりに森田療法の鈴木診療所から手紙を頂いた。
80歳まで生きておられた先生の奥様が、今年亡くなられたので「喪中の挨拶」という内容だった。
僕は神経症で入院した16歳の頃から、鈴木先生への年賀状は今日まで欠かしたことがない。もう15年も経つ。奥様は80歳で充分長生きされたと思うが、鈴木先生はまだ健在である。
もう90歳になってらっしゃると思う。禅の達人は長生きだと聞いたことがあるが、鈴木先生もその手なのかもしれない。
黒澤明の映画「まあだだよ」をご覧になった方がいれば御解りかもしれないが、僕にとって鈴木先生は、まさにあの映画の先生「内田百聞」と重なる。
そんな手紙を受け取った日でもあり、ちょっと森田療法について書き足したくなったので、今日はそんなお話。
高校2年生の夏休み。
森田療法を受けてから「不安をなんとかする」という生き方から「不安があっても、それはそれとして感じつつ、やりたいことに進んでいく」という「生きる態度」に徐々に変化した僕は、月に一度は鈴木診療所で追体験(週末の土日に泊まって、講話を聞いたり作業をしたりして鈴木先生の指導を受けるのである)をしながら、高校生活に戻っていった。
もちろん、この生きる態度の転換は時間がかかるし、むしろ一生、この生き方に撤するぐらいの気持ちでいないといけないとも思えた。死ぬまで「今に生きる」のである。そんなこといったら「息が切れてしょうがない」なんていう印象を持つ人もいるでしょうが「今に生きてしまった」時、自由に過去を懐かしみ、自由に未来を夢見る。または憂う。生きる内容自体は他の人と何も変わったことをするわけでもないが、自分を生かしている正体が自分を自由に動かし、
自由に悩み自由に喜び「ただ生きていく」。
そんな感じだろうか。
もちろん僕はそこまで徹底していないし、それこそ一生かかってそんな生き方へと徐々に近づいていくのかもしれない。
診療所に入院した先輩で、非常に徹底して生き方が転換した人がいた。
彼は「強迫行為」で「不潔恐怖から、いくら手を洗っても洗った気がせずに、やめられなくなる」というもの。4カ月くらいの入院療法と何年にも渡る追体験を行ううちに
「いつの間にか」症状は消え、むしろ言われないと忘れているくらいだそうだ。
そのひとが鈴木先生の講話の間に、体験談を現役入院生である僕らに良く聞かせてくれたことがあった。
今の彼は「ほんとに生かされている」状態だという。
そして何かあると「ありがたい」と自然に思ってしまうらしい。これは「頭で道徳的に思う」のではなく、勝手にそう感じるのだそうだ。もちろん森田療法では「何事にも感謝しなさい」などと「観念」を植えつけるようなことは一切しない。森田的な生き方を徹底しているうちに(つまり不安や苦しみを感じながら、特に抵抗せずに、ただ必要な毎日の生活に手を出していく生き方)そんな精神状態になってしまったんだそうだ。
特に面白かった話しが、
「道に咲いている花を見ると、なんだか私のために咲いていると思える」
この言葉を「ただのおめでたい人」と片づけるのは簡単だが、神経症で「自殺」まで考えて、にっちもさっちもどうしようもなく行き詰まったあげくの果てに森田療法に転がり込んだ人とは思えない、穏やかで嬉しそうな顔で喋るその姿は、やはり何か「越えた」人に見えたのである。
「仕事で失敗することもあるし、嫌なことは以前と変わらず嫌です(笑)。それは全然入院前と変わりません。でも嬉しかったり落ち込んだり、色んな事があって、毎日が楽しくてしょうがないです」と彼は語る。
禅の言葉で以下のようなものがある。
「日々是好日」
確かこんな言葉。
「毎日が素晴らしい」といった意味だが、これは通常の意味とはちょっと違い、その先輩が語ったように「苦も楽も全てあって、尚且つ毎日が素晴らしい」という状態のことである。この位になってしまうともう「外界の出来事」によって左右されなくなってしまう。正確に言えば「外界の出来事に一切抵抗しない。する必要がない」状態なので左右されないと言えばよいか。
「苦でも楽でもどっちでもいい」とも言える。「ただ生きていることが嬉しい」とでもいうのか。気違いみたいに思う人もいるかもしれませんが、確かにそういう状態になった人はいるし(この人は気違いどころか極めて常識人です)、僕も診療所の生活で何度かそんな心境になったことがある。
たとえば入院中、院内の掃除が終われば、使ったぞうきんを庭で懇切丁寧に洗うのだが、なんの娯楽もなく一カ月もそんな作業を毎日一生懸命していると、何故かぞうきんを洗うのが楽しくてしょうがない心境になる。
「ぞうきんが綺麗になるのが嬉しい」のだ。ジャブジャブとぞうきんを洗いながら、フト顔を上げると、今まで気付かなかった庭の木々の木漏れ日がなんとも綺麗だ。そして毎日の時間がとても長く感じ(例えば子供のころ感じた時間の流れのように)、でも夜になると「ああ、今日もあっという間に過ぎ去った」と思いながら寝床についたりしたものだ。
子供時代にも似た「時間の密度の濃さ」。
現代社会の僕たちは「娯楽」(例えばテレビ、ファミコン、映画、その他なんでも)という「気晴らし」によって普段のストレスを解消しようとするが、ここで僕が体験したことは「気晴らし」が一切ない環境の中「ただ、今必要なことに手をちょろんと出していく」ことを毎日続けて行くことによって「気晴らし」がいくらでもあった家庭環境とは較べものにならない「充実感」と「気持ちの落ち着き」が得られたのである。この「落ち着き」とは、いわゆる「リラックス」とは違う。「リラックス」は何か外的環境の刺激があれば「邪魔」されてしまうが、
ここでいう「落ち着き」は刺激に、ただビックリするだけで、それだけ。
昔、臨済という禅の坊さんのところに、ある人が尋ねて来てこう言ったそうだ。
「あの、わたくし、雷が鳴ると怖くて怖くて死にそうになるんです。どうやったら心が落ち着くでしょうか?」
臨済いわく。
「驚いたら驚いただけですよ。そのままでよい」
鈴木先生は講話でこの話しを良くされ「神経症はこの『雷におどろかないように必死になり、それで心がこんがらがって苦しんでいる人』と同じです」と言ったものだ。
しかし鈴木先生は更に厳しく「臨済は偉かったが、口で説明しても不安は消え去らない。彼は説教しかしなかったので後世に残らなかった。道元(現・永平寺で残っている)のように動きをやらないと、本当のことは伝わらない」・・と。
議論しても心は変わらない。
ニューエイジの本を読んだり、精神世界のセミナーに行ってみたり、チャネラーに会ったり、ヒーラーに会ってみたりと様々な事をやってみてきた僕ですが、今考えると、ここまで徹底したことを言っているのはすごいことだなあと改めて思い、若いうちに鈴木先生に出逢えて本当に良かったと心から思うのである。
そして「横尾忠則は嘘つきか?(大学生の頃)」へと続く。
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