

昭和37年の作品。まだ俺生まれてないよ。
時代全体の持つパワーだ。
植木等演ずる「平均(たいらひとし)」は勿論、端っこの平社員や、ちょい役の警官に至るまで「この世界の住人」は全員がなんとも明るくって元気がある。失敗しようが成功しようが、金持ちだろうが貧乏だろうが「そんなこと関係無い」のである。
「世界全体が生命感に溢れている」かのようだ。
絵の構図やカメラの動きにもなんかパワー感じるなあと思ってたら撮影は黒澤組の斎藤孝雄さんでした。奇をてらった映像なんか全然ないんだけど、とにかく力強いっていうか「骨っぽい」っていうか。
「社会」と「個人」の間の「疎外感」というものが見られない。
この頃は「一つのも」色んな世代が「共感」出来たんだろうな。「みんなのうた」が成立し「紅白歌合戦」を家族で楽しめた時代。どんなに植木等が無責任でも社会がそれを不健康に受け取らず「しょうがねえなあ」「でも面白い奴だなあ」と受け止めてしまえる社会。別にストーリーがどんなんでもいいのである。この世界感を味わうというか体験するだけで元気が出てくる。そんな映画だ。
「集団」の力が「幸福」に結晶した映画。
それに比べて今の映画ってどうだろう?日本においては相変わらず「個人」の感性に頼られた映画が創られている。僕は「個人」の感性に従うことには賛成なんだけど、日本ではその「個人」がパワー持つほど「成熟」していないような気がするんだよね。スゲーと思う「個人映画」は北野武くらいだなあ。あれは異常に個人のパワーが突出した例。岩井俊二が騒がれたってねえ。やっとヨーロッパ映画的な感性が東京を舞台に「やっと恥ずかしくはないかなあ」ってレベルに来たという感じでしょ。「繊細」ではあるけど「パワー」は感じないんだよね。
かといって現代は「集団」の時代には、もう戻れない。
というか「古い意味での」集団の時代はもうありえないと思う。今出来ることは、それぞれの個人がパワーを上げていって「個人が成熟」した後「新しい集団」の時代が成立するんではないかなあ。その集団というのはそれぞれの個人が充分確立している
ので、今までのような「カリスマ」に頼った集団の集中力を必要としなくても「自然と一つの目標」にむかえる。とっても難しいと思うけど。今しばらくは、それぞれの個人がパワーUPしていくんだろうね。「パワー」っていえば・・・・・・。
長谷川和彦は、今なにやってんだ!(昔から言われてるけど)
「ニッポン無責任時代」(1962年・東宝)監督:古沢憲吾、脚本:田波靖男、松木ひろし、撮影:斎藤孝雄、音楽:神津善行、出演:植木等、ハナ肇、谷啓、団令子、由利徹、田崎潤ほか
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